アルティメット・ブルー

ときどき無性に文字を書きたくなるので、その情熱の矛先としてブログ始めました。

ファイファンファンのぼやき

わたしがFFのことを「エフエフ」と読まず「ファイファン」と読むのは、他でもない母親がそう呼称していたからである。

母は、わたしがまだまだ幼くFF7の爆破ミッションすらタイムオーバーでゲームオーバーしていたくらいの頃からそう呼称していた。

父親がイギリスに長期出張していた1999年、母は父の滞在先に国際電話をかけ「ファイファンエイト、買っといたよ。先に始めてもいい?」と問いかけていたのを覚えている。

 

推察だが、その理由はFF1の頃のパッケージおよびカートリッジにあると考えている。

当時のFFは今で言う(言うほど今か分からないが)「ワードアート」のようなロゴタイプで、「ファイナルファンタジー」とカタカナ表記されていた。知っている人は脳裏に浮かぶだろう。FFにおける不朽の命題である(例外もあるが)クリスタルをイメージしたようなロゴ。知らない人はググってみて欲しい。

さだめし1をリアルタイムでやっていた人にとって、FFとは「ファイナルファンタジー」であり、略すにしても「ファイファン」なのだろう。

ちなみに2からはアルファベットの「FINAL FANTASY」表記となり、プラットフォームをスーパーファミコンに移した4の時点で既に現在もお馴染みのアルファベット+下部にケイ線のロゴが完成している。

 

わたしの記憶に残る一番初めのFFは、7だ、

父親が居間に居座って延々とプレイしていた。流石に自分でやることはなかった(前述の通り爆破ミッションで詰むので)が、テレビに映っている映像と父親の手元のグレーの機械が連動していて、父親にとってそれが楽しいことなのだということは、理解していた。

イギリスから帰ってきた父親は8も狂ったようにプレイしたし、9も発売まもなく購入してからは延々とプレイしていた。

ようやく我が家に電話がかかると止まるインターネットが普及した時には、どうしても詰んだときは母親に攻略情報調べて!と依頼していた。

 

わたしがはっきり記憶しているFFの衝撃は、やっぱり10である。

当時の小学校は、土曜日は午前中まで授業があった。

小学3年生だったあの日、帰宅したわたしは、にわかに緊迫した父母の雰囲気に動揺した。

おそらく2人の緊迫の理由は、応接間のローテーブルの上にたたずむ真っ青な大きな箱であろうということは、幼いわたしにも察しがついた。

その箱の真ん中には、直線的な文字のようなものが書かれていた。当時のわたしには読めやしなかった。

殺気立つ両親に急かされつつみんなで一緒に早い夕食を囲みながら、その青い箱は開封された。

青い箱から出てきたのは真っ黒で所々デコボコしていてなおかつ平らな塊だった。

そう、PS2である。

母親は食卓の采配をしつつも気もそぞろに、その黒い塊をテレビへと接続する父親に視線を送っていた。

あの頃、最先端で圧倒的なスペックを誇りまだ市場に浸透していなかったDVDという規格に対応した、まさしくゲームの歴史にとってキラーハードであるPS2である。

これまで見てきたハードとは全く異なる出立。クールで、シャープで、どこか恐怖を感じるようなダークさも兼ね備えていた。

父はFF10のディスクを投入した。家族総出でテレビ画面に注目していた。

あの印象的なグラフィックとサウンドエフェクトで起動したPS2は、微かな機械音をいななかせながら、FF10のディスクを読み取る。

見慣れたスクウェア・ソフトのロゴマーク。ここでわたしは、「あ、いつもの」と気づく。そうか、父親が定期的に没頭しているテレビゲームの最新作か。なんでプレステじゃないんだろう?

すると現れる、ザナルカンド・エイブスのロゴマーク。そして始まる、美しいピアノの旋律とデモ・ムービー。

進化しまくったグラフィック。まるで本物の人間のように表情豊かに振る舞い、FF10のことを何も知らないわたしたち家族に、そのシーンの悲壮さをありありと伝えてくるキャラクター。わたしたちは沸き立った。なんだこれ、と。

余談だがFF10はFF史上初フェイシャルモーションキャプチャを採用したFFである。パッケージの裏面に書いてあるので間違いない。

父親を急かしてニューゲームを選択させると、全く同じムービーが流れ始めるのだが(笑)、むしろもう一度見られることに喜んだものである。それくらいの衝撃だった。

しかしここにトラップがある。同じムービーだと思って油断してグラフィックの進歩に酔いしれていると、唐突に喋り始めるのだ。キャラクターが。

言ってしまえばキャラボイス付きのゲームなんてPS時代から全然存在するのだが、FFで初めてキャラボイスが付いたのは10である(これもパッケージの裏面に書いてあるぞ)。これまでDQとFF以外のテレビゲームにほぼ触れてこなかったあろま家にとって、衝撃であった。いまだに家族でゲームの話をしていると語り草のように語られるレベルである。

意味深なセリフを残した主人公と思しき男はFF史上初のギャル男であることも相まって、応接間は阿鼻叫喚であった。

その日はその後のチュートリアルを含む最序盤を家族で見守ったのだが、その最中もCGがすごいのなんの。父親はハリウッド超えたななどと口走っていた。

それからのわたしは、小学校をひけてから父親が帰ってくるまでの間、狂ったようにFF10をやった。友人と、マカラーニャ寺院のシーモアの連続魔はバ系でいなすとか、エフレイエはチキって距離取ってるとダメが不味いとか、ユウナレスカは第3形態一回目はかならずオーバーデスかましてくるからゾンビを1人は残すとか攻略情報を交換したり、ベベルのネタバレを喰らいショックを受けたり、わたしより一足先にシナリオクリアしていた奴を自宅に招きシンの体内攻略を見守ってもらったり、小学生の頭では理解できていないものの完全に美しいシナリオについて共に想いを馳せるなど、オタクとしての礎も築いた。

それからFF12が出るまでの五年間は、FFの過去作も徹底的にやった。

爆破ミッションを簡単に潜り抜けられて拍子抜けしたり、ミドガルズオルムやアルケオダイノスに叩きのめされたり、エクスカリバー2を手に入れるために奮闘したり、いろいろやった。

さらには、すっかり酸化して真っ黄色になったファミコンスーパーファミコンを押し入れから引っ張り出しもした。父親が若い頃使っていたハードたちと、それら同様に離れに放置されていた小さくてボロいブラウン管テレビを自室に持ち込んでは、レトロファイファンにも勤しんだものである。

FF12は父親は買おうとしなかったが、わたしがやりたいからと必死でおねだりした。今思うと初の主体的にやりたがったFFである。結局父もドハマりしたが(笑)。

いくつもの喜びや悲しみと出会った。幾度も世界を救った。

FFは、本当にわたしの青春である。

 

ところで話は変わるけど、ここ数年コンシューマゲームがほんっとうに頑張っている。

PS4発売から徐々に、switchが出てからは確実に、コンシューマゲームが変わってきている。

最新作でシリーズ史上最高傑作をたたき出したなと個人的に思っている国産シリーズタイトルを以下に挙げる。

 

ペルソナ(5)

ゼルダ(BotW)

ドラクエ(11)

マリオ(オデッセイ)

MH(W)

スマブラ(SP)

FE(風花雪月)

ポケモン(剣盾)

どう森(あつまれ)


(異論は認める)

 

さわっていないが龍が如くもかなりいいとか。
一億総ソシャゲ時代から歴史をその手に取り戻した(と言っていいだろう)コンシューマゲームの何度目かの黄金期を彩るに相応しい名タイトルがずらり。
この中には、もう次回作出せないでしょ!ってくらいまで完成度上げてきてるタイトルもある。


そんな中FFから出るのがFF7のリメイクって言うのが残念というか寂しいんだよなー。

悪いとは言わないが、過去の財産で食いつなぐのは、スマホで散々やってきただろうと。

FF15も、あの頃はまだ過渡期だったとはいえ、これらのタイトルを挙げてしまあと一段二段は劣って感じるんだよね。
FINAL FANTASYというタイトルに過大な期待を寄せてしまっているせいでそう感じるのはあるかもしれんが。

 

またもう一度、初めて見る世界に酔いしれさせて欲しい。他でもないFFに見せてほしい。

熱狂させてほしい。

アタリショックどん底から、DQと共にJRPGの黄金期を築き上げたFFなら、その魂をきっとどこかに残してる。はずだ。

と期待する気持ちは、どうやっても押し殺せはしないから。

それにしても15でも痛い目見たのに分作にするというFF7R第一弾、やるべきか、静観すべきか。